Beautiful Boy
スティーヴ・カレル×ティモシー・シャラメが気になったのと、映画館でも予告編を割と見かけたので、公開初日に観に行きました。
ティモシー君が重度の薬物依存症で、父親の無限の愛情により、立ち直る話(ノンフィクション)…
程度の事前情報があったのですが、どうやらその事前情報は、間違ってはいないが、正確ではないといったところでしょうか。
というより、実際に起きたことの中で、こちらが想定していた場面ではない箇所を切り取って映画を作ったって感じかな…
あと、予告では触れられてないけど、父親だけでなく、母親も同じように彼に愛情を注いでいるんですよね。どちらかというと、母ちゃんたちの行動に胸が締め付けられました。車で追走するシーンとか。
物語の主体が父⇔子と行ったり来たりし、さらに、薬物のシーンには不快な(←私には不快としか表現できない)音楽が流れたりするので、見ているこちらの気持ちも安定しない映画です。
これはきっと薬物の怖さとかそういったものを表現するためのものだったのかなとも思う…。
時々あれ?なんでこの映画観ているんだっけ…と我に返ってしまう程度には、希望が見えない感じが映画全体を包んでいるのですが、ノンフィクションで、かつ結末を知っていたので、なんとか最後まで観れました。
これ、逆に言えば結末知らなかったら、あまりにも辛い。辛すぎる。
でもこれが、薬物依存症になった者を持つ家族の絶望なんだなと思うと、
なんか、うん、本当に言葉にならない。本当に。
この映画の何が衝撃かって、子供が親に「タバコって吸ったことある?」てなテンションで、
「薬は何やった?」「一通りやったよ」なんて会話が父子で普通にされているんですよね。
さすがに日本ではここまで普通に会話する親子ってなかなかいないと思うんです。
いかにアメリカでは薬が簡単に入手でき、かつ、日常的なものなのだなあと。
自分でコントロールしつつ使用する分には、むしろ良い薬という認識なんじゃないかな。
そんなこんなで、暗い気持ちになりつつなんとか最後まで鑑賞したのですが、以下簡単な自分用メモ
・薬物依存症の描写
薬物依存症の描写って割とパターン化されていて、叫んだり、騒いだり、情緒不安定でいかにも私、薬やってます‼みたいな描写が多いのだけども、決してそんなことないんだなって。傍から見たら、
あれ?ちょっと変かも…
ちょっとやばそうだから距離置こう…
程度の人でも十分に依存症の場合があるんだなって。
あとは、依存症の当事者って、そもそも薬が楽しいからやっているのであって、止める気なんてないんじゃない??という偏見を持っていたのだけれど、本人も止めたいと思っていること、そして、やめられない自分の弱さに傷つきまた薬に手を出してしまうという、厳しい現実を知った。
ちょっと前に、(大好きな)コリン・ファレル氏がずっとクリーンだったけど忙しくて、再び薬物依存症になりそうだったので、自ら矯正施設に入った的なニュースを見て、どうゆうこと?って、とても不思議だったのだけれども、一度依存症になると止められないということがわかっていたからこそ、その行動だったんだなって。この映画を観て妙に納得した。
・多幸感って何?
どうやら薬物の効果に、「多幸感」というものがあるらしい。
多幸感って一体なんなんだろう…。
ティモシー君は役の中で「自分(の人生?)に足りなかったものはこれだと感じた」と言っているのだけども、結局それってなんなんだろう…。
薬に手を出したことのない私にはわからないのかな~知りたいと思っても、恐ろしくて手の出せない、禁断の果実って感じ。
家族との暖かな思い出にも、恋人との幸せな時間にも、優等生だった学生時代にも得られないもの………
そう考えると多幸感って“幸”という文字が入っているものの、別に幸せなわけではなくて、幸せの過剰摂取。もはや幸福とは別の次元なのだろうなと思う。
でも、軽い気持ちでその禁断の果実に手を伸ばしてしまったら…と思うと改めて誰でも依存症になる可能性があるし、考えれば考えるほど、恐ろしい。
と、薬物の恐ろしさと家族の絶望は十分に感じられる映画。決して気分の上がる映画ではないけども、薬物とは無縁の生活をしている人にこそ、見るといろいろな感想を持つ映画だと思う。