映画「帰ってきたムッソリーニ」試写会&トークイベント
映画「帰ってきたムッソリーニ」の試写会に参加してきました。
リアルサウンド映画部さんのTwitterで応募し、当選したものです。ありがとうございます。
本編上映後、小田原 琳氏(東京外国語大学 准教授/イタリア史)*1のトークイベント(20分弱)もあり、参加できてよかったです。
【映画概要】
現代のドイツに蘇ったアドルフ・ヒトラーが巻き起こす騒動を描く「帰ってきたヒトラー」から着想を得て制作されたイタリア映画。
*ムッソリーニとは、どんな人物か。
私ごときが、とても一言で説明できないですが、ドイツ=ヒトラーと対になるタイトルからも想像がつくように、ヒトラーと同時代に存在した、かつてのイタリアの独裁者です。強烈な人物であることは間違いないものの、日本人的(多分、他の国々の人にとっても)には、ヒトラーほどのインパクトはないのかな…と思います。
そんな彼が、現代に蘇ったら…?というお話。
【トークイベント】
イタリア人からすれば、誰もが知っているであろうムッソリーニの基礎知識がメイン。
時間も20分弱と短かったので、内容は割とさらっとしたものでした。
個人的にはもう少しゆっくりお話しを聞きたかったな…。
・ヒトラーの肩書「Führer」(独語)とムッソリーニの肩書「Duce」(伊語)の違い
どちらも総統を意味する。先に使用したのはムッソリーニで、ヒトラーが後に真似したもの。
トークイベントでは触れていませんが、映画を観て思うのは、総じてムッソリーニのヒトラーコンプレックスがすごい(笑)
・登場シーンでムッソリーニの両足が縛られていた理由
ミラノ郊外のロレート広場に放置された後、広場内のガソリンスタンドの桁から逆さに吊るされていたことから。死から蘇ったことを印象付けている。
・本作に登場する場所
ムッソリーニが万博のために立てた建物、ファシズム高揚のためにローマの遺跡の間に作った道、最後を迎えた広場など関連深い場所が多く登場する。
・小田原先生から見た「帰ってきたヒトラー」との違い
テレビから毎日流れる料理番組の描写や、登場人物のファッションなどはイタリアらしい。内容については、よりコミカルで、笑いの中から観客に考えさせるという手法は、イタリア喜劇という感じ。
・イタリア国内における本作の評価
評論家の評判は上々。ドイツ版の「帰ってきたヒトラー」と同様に街中インタビューを実施したり、ドキュメンタリー風に撮影していたが、人達の反応は、ドイツ版とは異なり概ね好意的だった。
とは言え、深刻な問題を抱える歴史を喜劇として描くのはどうなのか、という議論はイタリア国内でも起きた。
・劇中に登場する歌
劇中で何度も登場する「小さな黒い顔」という歌について。←ごめんなさい、曲名間違えているかもです。
1935年にイタリアがエチオピアを統合した際に作られた曲で、エチオピアを黒人女性に見立てている。征服者でありながら、黒人女性に「解放してあげるよ」と歌うファシズムを象徴する曲。今もイタリアでは普通に流れたりする。
なお、イタリアにとって、エチオピアは植民地支配成功の象徴的な場所であり、本作にも度々”エチオピア”というワードが登場する。
・日本とイタリア
大河ドラマ「いだてん」でも少し話題になったが、1940年の東京オリンピックが決定した際、実は、イタリアもローマを候補地として立候補していた。そこで、日本側がムッソリーニに直談判し、候補地から降りてもらったというエピソードがある。
その際、ムッソリーニは、イタリアは、その2年後に万博が控えているので、そちらに注力すると言ったそう。
福島県会津若松市にはムッソリーニから贈呈された記念碑がある。
日本国内で、ムッソリーニが白虎隊(が会津藩のために命を懸けて戦った姿)に感銘を受けたという噂が流れ*2、「せっかくのご縁なので何か記念のプレゼントを」と日本側からムッソリーニサイドにアプローチした結果、記念碑(遺跡の石柱)が贈られた。
今も会津にあるみたいです。
【所感】
・ムッソリーニという歴史の悪役を喜劇として扱うこと
たくさんの悲劇を生んだ過去をこうして喜劇風にアレンジするのはどうなんだろうか…という議論はイタリアでもあったそうだが、答えを出すのは、なかなか難しい。
そこで失われた命の重さを考えると、気分がいいものではないと思う。一方で、忘れられ風化してしまうくらいなら、こうしてブラックユーモア的な形でも残す必要があるのでは?とも思ったり…まさに議論は尽きないよな~って感じ。
劇中で、ムッソリーニが「人々は笑いたいのだ‼だから私も1940年代は喜劇ばかり放映した」というセリフがあるんですね。
うーん、なるほどなって。
悲劇的な映画の感想で、「見ているのがつらかった、だけど見なきゃいけない映画だと思った…」的なものをよく見かける。でも、そういう映画って、辛いことわかった上で、それでも見たいと思う人にしか、結局見てもらえないんですよね…。
だからこそ、まずは見てもらうことが第一となってしまうのかな…このあたり、簡単に答えを出すことは難しいけれども、個人的には、悲劇的な作品も喜劇的な作品もどちらも生まれ、記憶を絶やさないことが、大切なのかな~とぼんやり思う。
・ムッソリーニ、現代にいたら普通に人気出る…と思う…
劇中のムッソリーニ、首尾一貫言っていることが本当にぶれない。恐ろしいほどに、未来への道筋を明確に提示して話す。
これは、帰ってきたヒトラーを観た時にも思ったことですが、単純にすごいなと。未来を託したくなってしまう気持ち、全然わかるんです。
そして、芯がブレない、そして、逃げない←ここが徹底している人ってなかなかいないので、信頼を得てしまう。*3
とは言え、”あまり近寄ってはいけない人感”は、すごいある。それでも、この映画を観て思うのは、その狂気が自分に及ばない限り、まぁいいよねっ…となってしまう怖さだ。
狂気が自分に降りかからない限り、いいかなって感覚は私にもあるし、きっと多くの人にあるんじゃないかな~。
「こうなるってわかっていたら彼を支持しなかった」なんて、後になったら誰でも言える…。
『帰ってきたヒトラー』で、ホロコーストを生き抜いたユダヤ人の女性が、蘇ったヒトラーに対峙した際、「当時だって最初は皆、彼(ヒトラー)を笑っていた」と言うシーンがある。
つまり、当時だってドイツの国民は、ホロコーストが起こるなんて思っていなくて、「ヒトラー、ちょっとやばい感じは間違いなくある……。だけど、自分にその狂気が及ぶことはないだろうし、他の候補者よりはずっと信頼できる」って彼を支持し始めたんじゃないかな?(あくまでも、本作を見て思った私の想像です。)
そう考えると、なかなか…なかなかに恐ろしい話です。
あと、本作のムッソリーニ、(帰ってきた)ヒトラーの何倍も愛敬がある(笑)
日本だったら、「かわいい」とか言われてTwitterとかでも話題になることが容易に想像つく感じ…。
”歴史は繰り返す”なんて言うけれども、私にはイタリアに限らずどこでも”起こり得ること”と十分感じました。
だから、鑑賞後は複雑な気持ちになってしまったのですが、美味しいごはんを食べたら元気出た(笑)
きっとこの映画を観たイタリア人もそうでしょう‼いろいろあるけど、ごはんは美味しいね、セニョリータって。
美味しいごはんのある平和に今日も感謝。
こちらにも簡単に感想書いてます。