アマンダと僕
身近な人がテロの犠牲になったとしたら…
そんなシーンのある映画はいくらでもあると思う。
しかし、この映画には、他の映画にあるような犯人への恨み・怒りが爆発するシーンは(恐らく)一切登場しないし、怒鳴り、怒り、叫ぶような人は、登場しなかったように思う。
とにかく、悲しくて、寂しくて、苦しい…自分では、どうすることもできない感情。
それでも今ある生活を続けるために、なんとか踏ん張っている。
そんな人達が、互いに支え合う姿をあくまでも自然に、淡々と描いている。そんな映画だ。
この映画の登場人物は、テロの前も後も変わらずに、その街で暮らしている者たちである。
テロのあった場所は、日常の中でほっとできるような憩いの場であった。
そこに住む者であれば、だれもが愛着をもつような場所で、悲劇が起きた。
だから、家族だけでなく、恋人も、友人も…身近な人達の多くが、大きな傷を負った。
これってどれだけの悲しみだろう…。自分にとって、愛着のある人、町、もの…。大切なものが一瞬で、破壊され、昨日まであったささやかな暮らしが奪われたのだから。
映画の中で、主人公の二人(アマンダと僕)は、事件の後、懸命に毎日を生きるのだが、ふとした時、どうしようもなく涙が溢れてしまうのだ。それが、観ている者の心を締め付ける。
大切な人を失ったことがある人であれば、だれもが経験したことのある、日常の中でふいに訪れる、その人の喪失、その人の思い出…。
一緒にいた時は、なんてこともないことだったのに、今になって、どうしてこんなにも泣けるんだろう…。自分でもどうしようもなく、泣けてしまう。そんな瞬間が、この映画には度々登場する。
そのたびに、観客である私の涙腺も、見事に刺激されて、それはそれは、泣けて泣けて…。
泣ける映画は数あれど、主人公の涙につられてここまで登場人物にシンクロして泣けてしまう映画も珍しい。共感とかそんなものはすっとばして、脊髄反射的にうぅ…って一緒に涙が出てしまった。
この映画、泣けると言っても、号泣するような映画では決してない。
ただ、そこで懸命に生きている人を、淡々と描いている。私が泣けたのは、たまたま私の涙のツボにドンピシャだっただけである。
最初に、この映画には、テロに対しての怒りを叫ぶようなシーンはないと言った。でも、だからと言って、怒っていないわけでもない。映画全編を通して、一見、淡々として見える毅然とした態度こそが、この映画とテロとの向き合い方のように感じた。
テロの被害に遭ってなお、前を向き、互いに支え合いながらいきていく人たちのその姿勢こそが、テロに屈しないことという静かメッセージになっているのではと、勝手に思いを馳せたりもしたが、映画にメッセージ性ばかり求めるのも、なんだかな……。
と、思えるくらいに、アマンダと僕の物語は、悲しくて、辛くて、それでもあったかくて。
つまり、良作だったのだ。また観たいなと思う。