タクシー運転⼿ 〜約束は海を越えて〜
ボロボロ泣いた。
それは、この映画がエンターテイメントとして心震えるものだったから。
一般市民としての生き方とか覚悟が問われたような気がした。
1980年5月に韓国でおこり、多数の死傷者を出した光州事件を世界に伝えたドイツ人記者と、彼を事件の現場まで送り届けたタクシー運転手の実話をベースに描き、韓国で1200万人を動員する大ヒットを記録したヒューマンドラマ。
光州事件のことは全く知らなかった。この映画を見てもやっぱりよくわらかないままだ。
所謂「民衆と軍の対立」「民衆蜂起」「市民の反乱」って、ニュースで知ったり、傍から見ると、なんだか虐げられてた人々の怒りが頂点に達し、ついに暴動が‼みたいな…THEフランス革命的なイメージ。自分が当事者になることなんてないだろうなって思っていた。なんなら今でもそう思っている。
なぜなら私は、「世界を変えたい」とか崇高な思いもなければ、何かに激怒するほどの理不尽さも感じていない。正確にいえば、理不尽さを感じることはあっても、やり過ごして、穏便な生活を続けることを選んでいる。そこに迷いはなし、多分その程度の理不尽さなのだろう。
選挙には行くし、その時の気分でなんとなく投票する。そこには強い思想や思いなんてなくて、いつだってぼんやりと。ほんの少し、今より良い未来がいいな、その程度。
そして、私の目に見える範囲近しい人たちが、安全で幸せに暮らせていればって思っている。逆に言えば、身近な人が幸せだったら、国の体制なんて、なんでも良かったりする。極端な話、それくらいの政治への関心の薄い、ただの一般市民である。
多分だけど、多くの人がそんなもんなんじゃないかな??こればっかりはわからないけど。
こうやってブログを書いていることすら、私は自分のために書いていて、世界を変えたいといった類の思いは一切ない。
だから、ニュースで見るデモだって、どこかの国の民衆蜂起だって、“自分ごと”として、考えられなかった。
大学時代、ゼミの担当教授が「“自分ごと“として問題を捉えることがいかに大切か」を説いていた。頭ではわかったつもりでいたが、私は所詮こんなもんだ。
でも、この映画を観て思ったのは、特別な思いがあって、こういった事件に参加した人、巻き込まれた人なんて、ほとんどいなかったんじゃないかなってこと。
ただただ、目の前の光景を、見ていられなかったんだと思う。
たまたまそこに居合わせて、目の前で傷ついた人が倒れている。ただ助けたい。
国への怒りとかもあったかもしれないけど、ただ近くの人を助けたい、力になりたい、その一心だったんじゃないかな。
自分の意思に関係なく、たまたまそこに暮らしていて、そこに居合わせて、何らかの当事者になることなら、誰にだってあり得ると思う。もちろん私にだって。
その時、私は何者でもないただの一般市民として、どう行動するのだろうか。
いつまでも傍観者でいたい気持ちと、もう傍観者でいられない気持ち、もう見ていられないよって気持ち。
正解なんて多分なくて、全然わからなくて、ただただ自分だったらどうする??って。ただの一般市民として生きることを選んだ私に、その覚悟とか、理不尽さとの向き合い方を問うてきた気がした。
また、光州の人達があったかくて優しいんだな〜これが。それが映画の演出の一部だとしても、まぁ泣けた、泣けた。
つい昨日までのささやかな幸せが、美しいコントラストのように、悲劇が重なっていった*1。
最後に、自粛明けの特別上映として、この映画を無料上映してくれたシネマート新宿さんに感謝。
また観に行きますね!!
*1:もう映画だから、そうなるってわかってるのに、泣いた泣いた